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2006年4月29日 (土)

「お目出度い私」2連発

その1 「道徳は趣味の一部です。」

いや~、最近外出する事が多くて、なかなかパソコンの前にじっくり座れないですよ~。
っで、昨日もちょい遠方まで出かけたたのだけど、若い人たちの親切にとてもいい気分になった。

満員電車で、腰の曲がったおばあちゃんに笑顔で席をゆずっていた「MILK」の布バッグを持った若い女の子。混雑する本屋のレジ前で「おさきにどうぞ。」と自然に声をかけてくれた学生さん。
こんなちょっとしたエピソードでも、シアワセになってしまう私はお目出度い?

と、いうのも、このまえディズニーランドに行った時、順番待ちに何食わぬ顔で横はいりしてくる子供がいたり、それ以前に大人がわれ先に順番をあらそう姿に閉口したり、小さい子供が植え込みを棒でつついて葉っぱを落としているのを注意するどころかその姿をケイタイ写真にとってるヤンママが居たり・・・。

なんか、こんなに「楽しい音楽の流れている楽しそうな場所」なのにもかかわらず、「蜘蛛の糸の話の中の、糸に群がって這い上がろうとする亡者の地獄絵図」を連想してしまったのだ。

で、これらのレベルの低い行為が、「若者は道徳心が無い、戦後教育に問題がある、教育基本法改正すべき」という流れを正当化させてしまうんだなあと、ゲッソリしていたあとだったので、昨日の若者達には後光がさして見えた。日本に未来はある!

私は「自由」が何よりも好きだから、自由を謳歌するために、社会の最低限のルールは守ろうと心に決めている。ルールを守るのも私の自由、人に親切にするのも「その人のため」にやってるわけじゃない。人に親切にすれば自分が「気持ち良い」からやっているだけだ。なぜ気持ち良いかといえば、相手の笑顔を見ると私もシアワセな気持ちになるから。まあ、極端な言い方をすれば、「道徳は趣味の一部です(爆)」

褒められたいとか、目立ちたいとか、宗教的な義務感とかでやってるわけじゃないもんね。ましてや、他人に強制されてやるもんでもない。

不良の多い学校ほど校則が厳しい、または校則が厳しい学校ほど見えないところで子供は悪くなるのではないか?と、学生時代思っていた。よく吠えて人に噛み付くので鎖でつながれっぱなしの犬みたいに・・・。
友達のところの犬は、とても賢くておとなしかったので室内でも庭でも首輪を付けられずに自由にしていた。
・・・そんな事を思い出した。

そんなわけで、私は決して「道徳」が嫌いなわけじゃないけれど、「道徳を強制せざるをえない世の中」は、あまり好きではないのである。

そんな思いから、「教育基本法改定には反対」ってエントリを立てたら、「反日Blogアンテナ」に載せられてしまった。(苦笑)
私は日本が大好きだし、反社会的行動もしていないので、何で自分が「反日」なのかピンとこない。

私が最も嫌うのは「殺人の正当化」と、「言論弾圧」と、「狂信的な思想の権力」なので、それらの全てを含んでいる「金正日」みたいのが一番いやだ。文化としての中国や知り合いの中国人は好きでも、「チベットを弾圧している中国」は好きじゃない。アメリカの人形や知り合いのアメリカ人は好きでも「ガセネタで戦争し続けているブッシュ政権」は大嫌いだ。当然「日本に原爆を落としたのは正しかった」なんて思ってる一部のアメリカ人も嫌い。

前回「共謀罪」に反対するエントリを書いたけど、この件に関しては「憲法改正・教育基本法改正支持」で「教育勅語肯定」的な立場の櫻井よしこさんも「こんな法案が通ったら、北朝鮮のようになってしまう。いったい、どんなつもりで暗黒社会につながる法律をつくろうとしているのか。左右を問わず、あらゆる立場の人の言論は保障されるべきだ。」とおっしゃっていて、全く同感。

私は「小泉政権」に批判的なことも書いているけれど、それは「ブッシュ政権の飼い犬」みたいな姿勢が日本国民を幸福にするわけがないと思っているからだし、9条改定に反対なのも、アメリカの言いなりになって自衛隊を海外派遣する事は絶対に間違っていると考えるからだ。
わざわざ敵をつくる事で得るメリットって何だろう?と考えた時、小泉さんがやってきたこと、小泉政権的なものがやろうとしていることは決して日本を豊かにしないと確信するからだ。
日本のアメリカ化を憂い、古き良き山村、漁村の風景に想いを巡らせる。
その部分では「三輪の某」さんとか、「よしりん」に近いかもしれないと思う事もあるくらいなのだ。

と、いうことは、やはり、「教育基本法改定には反対」のエントリーで、「戦前の天皇制」を批判したのが悪かったのか?「反日」と言われる理由が、それ以外に考えられない。
「反日Blogアンテナ」から覗きに来るお客様がけっこう多いので、コレ読んで「あなたのココが反日なのだよ。」と突っ込んでこられちゃうかなあ?「荒らし目的でない人限定」で、私を「反日」だと思う人の意見も、聞いてみたいと、ちょい思うのだけど。
・・・と言ってはみたものの、GW中も仕事で、ゆっくりと対応する時間がないかも。(^^;)

ともあれ、ブログでの盛り上がり、日弁連、ニュー民主、社民、共産とうまく連帯したお陰か、共謀罪の28日強行採決はなんとかまぬがれた。でも、GW明けには新たな動きがあるだろうから油断は出来ない。
教育基本法についても、もっと話し合う必要があるのは当然と思っていたら、昨日のフジテレビの「ニュースJapan」では、意外な事に賛否両方の意見が聞けておもしろかった。
「姉歯氏逮捕」や「ホリエモン保釈」の陰に隠れがちな「共謀罪」の話題を、あえて取り上げていたメディアにも大感謝。

その2 「藪の中」から「全体像」へ

さっき「蜘蛛の糸」を引用してふと気付いたのだけど、中学時代に読んだ芥川龍之介の短編は、その後の私のものの考え方に、案外影響を与えている。
その中でも特に「藪の中」
一人の女性が強姦・殺害された事件を、複数の視点で物語る斬新な手法。それぞれの語り部の発言にはズレがあり、誰かが正しければ誰かが間違っているはずなのだが、それぞれが真実を語っているように書かれていて、一つしかない真実は藪の中、というお話。

私はこの小説を読んで以来、一つの事柄に対して、常にいろいろな立場になりきって、いろいろな方向から考えるクセがついてしまった。(だから「バイリニア」さんの視点など、大好きなのだ。ちなみに私の父は「極右」でした・・・。)
一方だけから見て「これはだ」と判断しても、他方向から見たら実は「」。だったらこの形は「円柱」。他方向から見て「」だったら「円すい」。どこから見ても「」だったら「」。と、いうふうに。

身近な例では、近所のAさんとBさんが喧嘩して、私は両者から別々に相談を受けたりする。聞いてみると、お互いの言い分はどちらも正しく聞こえる事が多く、結局私はどちらの味方もしない。よくお母さん仲間の溝やご近所トラブルなんて話を聞くけど、幸いな事にそのような悩みを抱えた事は、一度もない。
職場でも、言葉足らずやボタンの掛け違いで敵対心を持っている二人がいるが、私はどちらとも親しかったりする。
別にこれらは「八方美人」や「日和見主義」や「事なかれ主義」でやっているわけでなく、「藪の中」のクセで、どっちの気持ちもわかってしまう私がいるのだから、しょうがない。
たとえ「真実は一つ」だとしても、「私は絶対に正しい」と思わないのも、そのためである。

最後に、幼少時の私が影響を受けた仏教のたとえばなしをひとつ。
目の見えない人数人に、「象」を触ってもらう。耳を触った人は「これはうちわのようなものです。」と答え、お腹を触った人は「これは太鼓のようなものです。」と答え、しっぽを触った人は「これは縄のようなものです。」と答える。
3人の答えは、どれも正しいのだけど、「象という全体像」までは行き着かない。
「目覚めていない人は物事の全体を把握できない」というたとえばなしなのかも知れないけど、一歩前進して、3人でお互いの意見を交換し合って総合的な判断をしてみれば、「象」という一つの答えが、その後出てくるかもしれない、と、思ったりもする。

そして、未来の「政治」「国と国との関係」が、そのようなものであってくれたらいいなあ、などと漠然と考えている、やはりオメデタイ私なのである。(その「お目出度さ」が反日なんだ!って突っ込まれたら、ぐうの音も出ませんけど・・・。)

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2006年4月25日 (火)

ボンテージパニック!

昨日山手線がストップ、乗客のうちの数人が、気分が悪くなって座り込んでいる映像がニュースに映し出された。聞けば一時間ほど車内に閉じ込められていたとの事、満員電車の中でいつドアが開くかもわからず待たされている身は辛かっただろう。心身ともに丈夫な我がハイグー者は「何でこんな事で気分悪くしてるんだ?虚弱だなあ。」とつぶやいていたが、私はヒトゴトではないと思った。

実は数日前のこと。いや~、ワシもヒドい目にあったのだ。

ふだんあまり人の運転する車に乗る機会のない私だが、この日は珍しく遠出、いくぶん緊張して助手席に乗り込んだのがいけなかった。いつもよりカチッとしたデザインのタイトスカートが最近太り気味の両足を締め付ける。変な座り方をしたので、下着までがおしりに食い込んで気持ちが悪いことこのうえなし。気になりだすとトップスのゴムの位置から首に巻いたストールの締め具合までが邪魔でしょうがなく、おまけにシートベルトに拘束されていて直すわけにもいかない。車はそのまま高速道路の入り口へと向かう。

私は何だか体中をボンレスハムのようにぐるぐる巻きにされているような感覚に陥り、全身に鳥肌が立って冷や汗がにじみ、心臓がバクバクで、吸っても吸っても酸素が体の中に入って来なくなってしまった。このまま高速に入ってしまったら死んでしまうかもしれないという恐怖が湧き上がってきて、車を止めてもらうと慌てて外へ転がり出した。ストールをゆるめて吸い込むシャバの空気の何と爽やかでありがたい事か!

あの状態があと数分でも続いたら気を失っていたか自殺していたかと思うくらい苦しかった。おそらくこれが「パニック発作」というものなのだろう。実はこの症状、過去に何度も私を襲っている。

私は人一倍想像力が強いので、「痛い」話などを聞くと、本当にその部分が痛くなってしまうし、他人の苦しみが自分に重なってしまうような事が、昔からよくある。
10才の頃、「恐怖の黒猫」(後にブラム・ストーカーの「牝猫」と判明)という短編小説で、中世の拷問道具「鉄の処女」の中に縛られて入れられた主人公が串刺しになるシーンにショックを受けたのがきっかけだった。
その後も、宇宙船の船内、難民輸送船内、独房、拷問、拉致、全身マヒで寝たきりの人などのシチュエーションを想像すると、まるで自分がそこに置かれたような息苦しさを感じてしまう。
「頭ははっきりしているのに体の自由がきかない」「狭い所に押し込められている」「外界と遮断されていて逃げ場がない」という状況を、私が何よりも恐れているからだと思う。そして、今回の車内では、その三つの条件が擬似的に揃ってしまったので、ひどい発作が起きたものと思われる。

日ごろ「空気」なんてあって当たり前で、「空気が吸えない恐ろしさ」なんて、考えた事もないけれど、さすがにこんな事態がおきると、「空気を吸えるありがたさ」「手足を大の字にして寝る事の出来るありがたさ」を感じずにはいられない。

で、ワタクシゴトから無理やり結びつけて、ここで共謀罪のことを少々。
良心的なブログや新聞では、その危険性について繰り返し指摘しているにもかかわらず、一般の人はほとんど知らない「共謀罪」。

実際には何もしなくても、犯罪の相談をしただけで罪になる法律なのだそうだ。
例えば、友達二人で「あいつ気に入らないから殴ってやろうぜ。」などと、たとえ冗談で言っても犯罪になってしまう。しかも「あれは冗談でした」と後で取り消しても罪は消えない。

「そんなうしろめたい会話してる方が悪いよ。真面目に生きてれば何のカンケーもない法律じゃん。やましさのある人間だけが騒いでるんじゃないの?」
なんて声も聞こえてきそうだけど、ここで対象となる犯罪は600以上もあり、罪の規定が曖昧で、いくらでも拡大解釈が出来る。
例えば「共謀罪っていう悪法を皆で阻止しよう。」って話し合っても、現地点では罪にならない。でも、もし共謀罪が法律として成立して以降こんな話し合いをしているのがばれたら、ワシらも犯罪者にされかねない。
さらにコワいのは、警察に届け出たものは罪が軽くなる、つまりは「密告が奨励される社会」になるってこと。仲間同士の疑心暗鬼から、「めったな事は口に出来ない」という自粛ムードが生まれ、「窒息した人間不信社会」の出来上がり。

これって・・・戦前の日本や今の北朝鮮みたいだよね!

戦前の日本には「治安維持法」っていうのがあって、自首をすると処罰が軽減または免除されたため、スパイ行為が盛んに行なわれたと聞く。集団を弾圧するためにスパイを送り込んで、共謀をでっち上げる事も可能だったらしい。

そういえば、母から聞いたことがある。「となり組」の話。
ド・ド・ドリフの大爆笑~♪のメロディーでお馴染みの、トン・トン・トンカラリと隣組~♪
コミカルで楽しそうな歌だけど、その実態を甘く見てはいけない。
隣組には、隣近所が助け合うという役割の他に、相互監視という役割もあったのだ。
向こう三軒両隣、どこかで「非国民的な」行動があれば連帯責任、それを恐れてか、本当に他愛もないことでも密告の対称になったと母は話していた。赤い布切れをぶら下げていただけで「アカだ」と密告、スカートを履いていただけで「非国民だ」と密告、これ実際母の身の回りで起こった事だというから驚く。

そして現代。
電話での会話を警察が傍受することが出来る盗聴法
国民に戦争の協力をさせるための有事法制
地方自治体が住民を保護すると称して、避難や立入禁止の場所を設け、統制するための国民保護法制
国民一人一人に10桁の番号をつけ、国民を一元的に管理することが出来る住基ネットなどなど、いろいろな名目で監視される社会になりつつある昨今。
このうえ更に共謀罪が成立すれば、スパイ、盗聴が合法的に日常茶飯事になり、他人を信用できない人間不信の陰湿な相互監視社会・警察国家になる可能性があるのだという。
助け合うはずのご近所付き合いが密告社会になったように、私達を守ってくれるはずのおまわりさんが、私達の心を取り締まることになるかもしれないのだ。

このように見ていくと、共謀罪は、権力者側が自分たちの便利なように使おうと思えばいかようにも使える非常に危険な法律であり、まさに「現代の治安維持法」だという見方も否定できない。

そもそも、問題ありということで過去2回も廃案になったのに、与党はなぜまた急いで復活させたいのか?それについての何の説明もないままに、国民に多くを知らされることもなく、今週の木曜日にも強行採決をする見込みだそうだ。
この動きはいよいよ怪しい。以前からそう感じていたが、これは改憲、戦争に反対する勢力の口封じが目的ではないのか?
そう思っていたら、「きっこの日記」ですごくわかりやすく書かれていた。

これが本当のシナリオなら、自民党のやっている事は、姑息!卑怯!と言わざるをえない。
今はまだそれが言えるだけマシだし、まだ間に合うかも知れない。

もしも将来、「戦争反対の声をあげよう!」と話し合っただけで、警察につかまって、牢屋に入れられて、ヘタしたら拷問を受けるような未来になったら、と思うと、またまた発作が起きそうである。
こんな「心のパニック発作」がずっと続くような社会にはなってほしくない。
私達は、一部の国家権力によって窒息させられそうになっている。
新鮮な空気のありがたさは、息が出来なくなってからでないと気付かないなんて、ナサケナイことにはしたくない。

パニック発作の恐怖覚めやらぬうちに共謀罪のニュースを耳にして、「独房で縛られているような息苦しく不吉なイメージの夢」に、数日間うなされた。こんな時こそ、ユーウツな気持ちとともに、ばりばりと目の前の障害物をこわしつつ、胸いっぱいにキレイな空気を吸い込んで、言いたい事言うしかない!(これが私の被害妄想だったらどんなにラクかと思いつつ・・・。)

<参考ページ>

●基礎知識はココ!
キョウボウザイってなんだ?
http://kyobo.syuriken.jp/what.htm

●さらに詳しく
共謀罪 5つの質問
http://www.jlaf.jp/iken/2004/iken_20040115_02.html

●タイムリーな情報
保坂展人のどこどこ日記
http://blog.goo.ne.jp/hosakanobuto/e/c70cefff055ca9475d3f5d9ca168f2bd

●ためになる熱いブログの宝庫
Under The Sun 共謀罪に関するTBセンター(4/23)
http://utshome.exblog.jp/1887155

●とってもわかりやすくワシらの声を代弁!
きっこのブログ
http://kikko.cocolog-nifty.com/kikko/2006/04/post_72f1.html

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感謝、御礼。

そぞろ日記さん、華氏451度さん、Under the Sunさん、BLOG BLUESさん、皆様、トラックバックありがとうございます。本当に、いつも嬉しく思っています。
ここ数日パソコンの前から遠ざかっておりましたが、明日は、ひさしぶりにブログと向き合えそうです。(*^^*)

それでは、また明日!

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2006年4月16日 (日)

知らないワケにはいきますまい!

教育基本法は、「教育の憲法」みたいなものなんだって。そして、現日本国憲法と同じく、
「国家権力を縛るもの」であるらしい。教育を受ける子供たちが守らなければならないものではないという事だ。
現教育基本法は「個人の尊厳」を基調にしているが、改正案は「国家主義」が基調だと危惧する声もある。

何で自民党が現憲法や現教育基本法を嫌って何が何でも変えようとしているか、タテマエとしては「アメリカからの押し付けだから」「変化する時代にそぐわないから」「青少年の道徳の乱れを正す」って事になっているけど、本音は「権力を縛るためのもの」であるそれらが邪魔でしょうがないだけなんでしょ、って事が、いろいろな記事を読んでると「ロコツに」浮かび上がってくる。

まずは自民党がこだわっている「愛・国・心」
「愛」って言葉、ビートルズの歌詞なんかに出てくると、素敵。「心」も、「心のこもった」「心ある人」なんて言葉に日本的な暖かさを感じて、けっこう好き。でもここで言う「国」って何?って事になると、「住んでいる町の延長である家族のような共同体」って意味じゃなくて、「国家を牛耳る一部の権力者」の事じゃないか?

ちなみに、郷土や日本文化は好きだけど(「新日本紀行」とか大好きな子供だった)、それって自然な事でわざわざ口に出して「愛してま~す。」って言う必要もない。信頼関係で結びついた夫婦が「愛してる」を連発しないのと一緒。それがわざわざ「愛」にこだわって条文化させるのは、これから「愛せない国の方向」に行くのではないかとかえって不安にさせられるというものだ。

かろうじて残った「日本国憲法の精神にのっとり」だけど、自民党案ではこの部分は削除の対象。この法案が「改憲」と対を成すものであることがうかがえる。

そして「個性」という文字が削除され、「公共の精神」「道徳心を養う」が前面に。

教育基本法で「公共の精神や道徳は大事だよ~。」って明記しないと、道にゴミは捨てるわ、電車の中で大また開きで座ってるわっていう人種が後を絶たないのだろうか?でも!だとしたら、あまりにもレベル低すぎないか?

そもそも「個性」とか「自由」というのは、「人に強制されたくない」という思いから端を発しているのだろうけど、同時に「人にも強制しない」という思いやりの心をもふくんでいるものなんじゃないか?個性や自由を尊重する人ほど、人に対して思いやりを持てると私は考える。そういう意味でも、個性をなくし、公共性を訴える新案にレベルの低さを感じずにはいられない。

今回盛り込まれなかったようだけど、自民党案では、「宗教教育」について、「宗教が情操の涵養に果たす役割は教育上尊重されることを盛り込むべき」「道徳や公共心、しつけにつながる」って意見があるみたいだ。けど、道徳と宗教って、本来分けて考えるべきものなんじゃないの?だって宗教心持たない人にだって道徳心はあるんだし、逆に特定の宗教に狂信的になったがために「非道徳的」になってしまった「オウム」や「戦前の日本」や「原理主義者」もあるわけだから。

大昔、ある宗教団体のセミナー(洗脳教室)に友人から誘われて参加した時の事。
そのセミナーに出て「宗教心」を学んで変わった事っていうのを、一人ずつ発表した時、一人の青年が、「僕は電車でお年寄りに席を譲ることが出来るようになりました!」って言ったら、会場に居る人みんな盛大な拍手。え~~~っ!「宗教心」なんて学ばなくても、困っている人が居たら助けるの当たり前だし、お年寄りに席を譲るなんて、フツーにやってる事じゃん!こいつら、そんな事すら出来ずにいたのか?!ってぶったまげた思い出がある。

また、ここで言う「宗教」の具体的な方向性がイスラム教なのかキリスト教なのか仏教なのか儒教なのか古代神道なのか国家神道なのかが見えてこないのもかえって不安を煽るものだ。私は特定の宗教を信じてはいないけど、「個人の信仰の自由」は認めるべきだと思っている。(このブログを始めたばかりの頃に書いているけど。)だからこそ、国家や政治という「公」が宗教心を教育に盛り込む事は危険だと考える。

さらに、自民党が削除したがっているのが「不当な支配に服することなく」という部分。妥協案でこの文言が残ったことなどにも批判が相次いだらしい。でも「不当な支配に服さない」って、当たり前の事でしょ?それを削除したがってる自民党は、つまり「不当な支配に服してもらわねえと困るんだよ。」 って立場なコトが明快だ。いや~わかりやす~。こわ~。

総合して考えると、自民案がそのまま行けば、「個性的な子供は望ましくない。国を愛し、国のために従順に行動する事が望ましく、道徳心を育てるためには宗教教育(何の?)の復活が望ましい。これら(=不当な支配)に異論があるものも従ってもらう」、ってコトですよね!これって、教育勅語とどこがちがうの?

・・・と思って調べていたら、こんなコト言ってる人がいるのを見つけたよ。
1999年8月 自民党教育改革実施本部にて 河村建夫文部科学大臣曰く、
「平成の教育勅語を念頭において議論したい。」
やっぱそうだったのね・・・。

ちなみに教育勅語は一部要約すると、
「国民は 親孝行して、兄弟仲良くして、夫婦はむつまじく、友達は信じ合い、自分の言動を慎み、全ての人々に愛の手を差し伸べ、学問を怠らず、仕事に専念し、知識を養い、人格を磨き、進んで社会公共のために貢献し、常に皇室典範と明治憲法をはじめとした諸々の法令を守り、非常事態の発生の時は大義に基づいて勇気をふるい、一身を捧げて皇国国家のために尽くさなければなりません。これらの事は天皇陛下に対して忠実な国民であるばかりでなく、私達の祖先が残された伝統的美風をさらにあきらかにすることでもあります。」

な~んてことを言っており、戦前の学校では徹底的にこれがたたき込まれたという。
太字部分を除けば、何てことない、今でも「道徳」として普通に生き続けているものばかり。ということは、一部の自民党議員が復活させたいのは太字部分の方だということは簡単に予想がつくし、(森前総理の「神の国発言」なんてのもあったね。)するってえと、基本法改定案に自民が盛り込もうとしている「道徳とからんだ宗教教育」というのは、国家神道だという方向性が出来上がってくる。だって、「イスラム教やキリスト教」ってことはありえないし、もし「仏教」だったら公明党が反対するわけないもんね。(ワシは創価学会じゃないけど。念のため。)

全ての事柄は連動して起きてると思うから、木だけ見ないで森全体を眺めてみると、日の丸掲揚や君が代斉唱の強制、戦前の言論統制をほうふつとさせる共謀罪を執拗に取り上げる必要性、仮想敵国で恐怖を煽っての国民保護法から9条改憲への流れと、繰り返し言うけど、つながってるとしか思えないでしょ。
そういえば都知事自らが脚本・製作で「特攻隊の映画」を作るらしい。しかも窪塚洋介主演で。それ自体薄気味悪いと思うけど、どうなの?

今自民が押し進めている教育基本法改定案は「上からの取り締まりと強制」。若者を、国家に従順な人間に仕立て上げて、国を守るという大義名分で抵抗なく戦争させるような方向性で動いているというのが私の結論だ。

だいたい上からの締め付けや教育勅語的な道徳のみで、今の若者が本心から「公共心があり、マナーを守り、周囲の人を大切にする立派な若者」になるとも思えない。それは生徒手帳を全く守らない生徒がいることからもわかりきっている。細木数子の番組で涙を流すような「叱られたい」子供がいることも事実だろうが、反対にしつけの為と言って虐待されたり、個性的過ぎてイジメにあったりして非行に走ったり自殺したり引きこもったりしている若者だって多いと思う。それぞれの個性によって対処の仕方は違うのだから、国が「道徳という絶対」を押し付けるのはおかしいのではないか。

それぞれの個性に対応する普遍的な内容というのであれば、今の教育基本法だけで充分だと思う。

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2006年4月 8日 (土)

サイズダウン

とくらさんの4月4日のエントリーの「ビートたけし」のリンクから飛んだ、日々徒然日記さんで、TVタックルにおけるビートたけしのコメントを紹介していた。(以下引用)


「今の憲法ですら、イラクに自衛隊を派遣できるんだから、
これ以上憲法で認めたら、どうなっちゃうんだろうなぁ」
「(例えとして)いまは坊さんがこっそり酒を飲んでいるのに、
法律で『坊さんは酒を飲んでもよい』と認めたら、
次に何をするかわからない」
「今は政治も、日本国民も昔に比べてダメになった。
そんな時に憲法を変えるような大事な話を決めちゃうのは不安だな」

そんなことを番組で話していた。
お坊さんを例えに出すことが適切かどうかは微妙だが、
彼の発言には、
理屈によって積み上げられた結論ではない、
人間の皮膚感覚から導き出される考え方が宿っている。
そして、
政治側の私が言うのもおかしいが、その考え方は非常に的を得ているように思える。

(引用終わり)
私は以前、テレビタックル内でのたけしの発言があまりにも消極的だったり茶化しだったりしたので、「この人は何を考えているんだ?」とイライラして番組を見るのをやめてしまったクチだが、今回は言ってくれたんだ!嬉しいぞ。

たけしさんが言ってたのは坊さんの例えだったけど、ワタシは自分の経験に当てはめて考えてみた。

ジャストサイズのスカートを買って、ちょっと太ったけど贅肉押し込みながら無理してはいてたら、ファスナーが閉まんなくなった。
そこで痩せようと努力すりゃ良かったのに、体型に合わせて、スカートを買い換えた。
やっと普通にはけるようになったのもつかの間、また太ってきた。
そこで痩せようと努力すりゃ良かったのに、体型に合わせて、スカートを買い換えた。
やっと普通に・・・(繰り返し)

で、「気が付いたら、ものすごい肥え太った自分がそこにいた。」ってオチには、したくないよ~。(^^;)

「押し付け」だから変えるべき、って言ってる人も少なくない(実生活の私の周りにも)けれど、だからといって、
今の自民党にこんな大事な事任せられますかっ!(怒)
だってどう考えても「アメリカからの押し付け改憲」でしょ。今の状況って。

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2006年4月 4日 (火)

軍歌の誘惑

Photo いきなりだが吹奏楽部。新入生獲得のために勧誘する様々なクラブ活動の中で、ひときわ光を放っていたその舞台に思春期のワタシは釘付け。
ポップなヒットソングのメドレーとかはどうでも良かったが、ノスタルジックな「大河ドラマのテーマ」、金管楽器と重厚な打楽器が紡ぎ出す勇ましいマーチの数々、そしてアメリカ映画「天地創造」のテーマ(後に知ったが黛 敏郎作曲)などに血湧き肉踊らされ、迷うことなく入部を決意。ところがその実態は。

比喩でなく本当に血がにじんだ連日の練習、重い荷物運び、主従関係においては要領の良いものが上級生に可愛がられ、仲間同士のライバル意識から来る嫌がらせに等しい行為、コンクールに向けての取り組みも音楽を楽しむというよりいかに他校に勝つかに重点が置かれたまさに体育会系!!ワタシは「鮎原こずえ的スピリット」の持ち主じゃないから、とっととケツまくって逃げ出した。

実は今でもマーチとか民族主義的な現代音楽とか大好きで、それと懐メロ好き要素とが重なって、「軍歌大好き」なのである。(有名な軍歌とか一通り歌える。)一般的には不人気な右翼の街宣車であるが、そこから流れる大音量の「それ」に、思わず足並みが揃ってしまったりする。伊福部昭の特撮映画音楽(地球防衛軍とかゴジラ系)、ジャケットの絵もコワいユーゴ時代の「ライバッハ」(←オイそれはフツーの主婦は知らないと思う)コレは有名な「阿修羅のごとく」のテーマソングにもなったトルコの軍楽「ジェッディン・デデン」など、
周囲にあるもの全てをバリバリとなぎ倒しながら進んで行くカタマリ」的な音が無条件に大好きなのだ。 

自称平和主義者の私をも奮い立たせてしまうマーチの魅力、それと同じように、「全体主義」「戦争」のイメージは、時として痺れるほど魅力的に私の目に映る。ヒトラーの演説、鍵十字のスタイリッシュな演出、一糸乱れぬ行進の秩序正しさ、武器そのものの美しいフォルム、プロパガンダのポスターのシャープなデザイン。
全体主義や戦争という最も非人道的な行為を多くの人民に支持させるためには、これほどの美しい目晦ましと体を奮い立たせる音楽が必要不可欠だったと私は確信する。イメージ操作というのは恐ろしいものである。

先日、ネットで徘徊してたらたまたま「軍マニアの若い女の子」のページを発見した。絶対に体育会系ではなさそうな彼女にとって軍服はファッションの一部なのだろうか?実は若い子がそのようなものに憧れるのがとてもよく解るのだが、その延長線上に「リアル戦争」があってほしくないと願わずにはいられない。

敵をなぎ倒す勇ましいイメージはタンクで暴走する爽快感にも似て、爽やかですらある。しかし、実際の軍隊の構造は限りなく体育会系だろうし、戦場での現実は「アメリカ映画」や「少年ジャンプ」のようであるはずもない。
リアル戦争体験者、水木しげるサンの「総員玉砕せよ」をぜひ読んで欲しい。有無を言わせぬビンタ攻撃、人名は軽んじられ、感覚は麻痺し、性欲と食欲が突出する世界は、マーチの勇ましさとは対極だ。しかしこれが現実なのだと思う。

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