パレスチナ問題 (後編)
布引洋さんから、昨日のエントリーにコメントをいただき、私が「まんが パレスチナ問題」を読んだ感想として、後半で書きたかったけどどう説明してよいか思案中だった事を、布引さんが的確に書いてくださいました。(^^)
(以下色字が引用部分)
> 日本の市民に届く中東のニュースは、欧米の「マスコミ」・日本の「マスコミ」という二つの偏光したフィルターを通って来ます。
> 二つのフィルターを通る間に当然大きく変色してしまいます。
> 日本人の知っているパレスチナ情報は、欧米の見方(願望)でしかなく、事実では有りません。
私も(ただでさえ日本人とってわかりにくい問題なのに)マスコミの報道に振り回されている感じを否定できません。数日前、イスラエルがレバノンの国連施設を爆撃してパレスチナ人以外の死者が出たことで、やっと「イスラエルの過剰反応」と言う声も多く聞かれるようになりましたが、それまでの(私が見た限りでの)TV報道では、
「ヒズボラの存在意識はテロのみにある」
「兵士を拉致したヒズボラには、事態を泥沼化に持ち込んで世界を注目させる目論見があるのではないか」
「一方のイスラエルはヒズボラ壊滅を狙っている」
なんて、まるで「テロと拉致しか手段のない犯罪集団 VS 犯罪集団の壊滅を狙うイスラエル」みたいに見えてしまうような論調がまかり通っていて、「自らの存在を誇示するためにイスラエルを挑発したヒズボラが悪い」なんて信じている人が少なからずいるんじゃないかと、心配になってきたものでした。
流される映像も、「ヒズボラからの攻撃」と題して、「泣き叫ぶ金髪の女の子」の映像を流すなど、「ヒズボラ=悪」という刷り込みを感じるものが少なくなかったように思います。実際の死者の数を見てみれば、「イスラエルの攻撃」と題した「泣き叫ぶパレスチナ人の子供」の映像が10倍の多さで流されなければ嘘でしょう?と思ってしまいます。
そんなおり、東京新聞の「特報」で、こんな記事を載せてくれました。(以下引用)
2006.7.25 ガザで取材中 照準はわれわれに
イスラエルによるレバノン攻撃が拡大する中、イスラエル南部のパレスチナ自治区ガザでもイスラム原理主義組織ハマスなどによるイスラエル軍兵士拉致をきっかけに市民を巻き添えにした攻撃が展開されている。現地で取材中のジャーナリスト大月啓介さん(32)は市街地で銃撃され助手とともに負傷した。普通の人々の中で起きている“戦争”の今をお伝えする。
今月十六日、私は人口約三万二千人のガザ北部の町ベイトハヌーンで、サマーハという少女の家族を訪ねていた。サマーハは中学一年生の十二歳。二年前にイスラエル軍がこの町へ“侵攻”した際に狙撃兵に頭部を撃たれ、脳を損傷し瀕死(ひんし)の重傷を負った。しかし彼女は驚くべき回復力で今では歩くことも、少し複雑な会話もできるようになっていた。
私たちは再会をよろこび合ったが、この日、街は再びイスラエル軍の侵攻にさらされていた。上空からは無人攻撃機が、街の中心部では戦車と軍用ブルドーザーが住民ににらみをきかせている。私と助手のパレスチナ人アブハリール(32)は侵攻の状況を取材しようと彼女らの家を後にし、二キロ北東の戦車が展開する地域へ向かった。
私たちは慎重に身を隠しつつ、三階建ての民家の屋上からイスラエル軍の視界にさらされないよう撮影を始めた。しかし、周囲の状況から判断して、すぐにこれ以上は危険だと感じ、撤退することにした。
■助手に威嚇攻撃自分も腕を負傷
一階へ下り、玄関外の壁の陰で、どのように身を隠しつつここを離れるかと考えた、その時だった。「パーン」という銃声が響くと同時に、右手にチリリと痛みが走った。とっさに家の中に身を隠したがアブハリールが、「足が! 足が!」と叫んだ。見ると、彼の左足から大量の血が流れている。一体、どこから撃たれたのか。
「どこか」に身を潜めた狙撃兵がわれわれに照準を合わせているかと思うと背筋が寒くなった。優秀なイスラエル軍のスナイパーがわれわれのような静止していた標的を撃ち損じることはまずない。そしてわれわれが明らかに東洋人のジャーナリストとその助手だということはスコープを通して確認しているはずだ。彼らはジャーナリストへの威嚇としてアブハリールを狙い撃ったのだ。
私は撃たれた助手のひざを縛り、一刻も早く彼を病院へと運ばなくてはいけなかった。しかし、ベイトハヌーンでは救急車も攻撃の対象になっていた。
「外国人ジャーナリストが、白旗を掲げて負傷者を運ぶ」という常識的には攻撃の対象とはなり得ない方法でも、ここではあまりにリスクが高すぎる。実際、かつてガザで白旗を掲げていた英BBC放送のイギリス人カメラマンが、狙撃により命を落としている。
私と居合わせた住民で負傷したアブハリールをかつぎ、身を隠しながら密集した家々を伝い、壁をよじ登り、フェンスをこじあけ、彼を救急車に乗せられる安全な場所までたどりついた。周囲の民家の住人に手を貸すよう求めたが、彼らも狙撃を恐れてか家の外に出ることはなかった。
ベイトハヌーン内の病院にたどりつき医者の「命に別条はない」という言葉を聞くと、一気に力が抜け、私は自分の腕の痛みと出血に気がついた。小さな傷口に似合わぬ量の出血だった。アブハリールに当たった銃弾の破片によるものだ。
そこに新たな救急車が到着した。犠牲者を乗せた二つの担架が、狂ったように泣き叫ぶ人々とともに運ばれてきた。体を覆っているシーツが一瞬めくられると、そこには、原形をとどめた「胴体」と呼べるようなものがなかった。われわれが狙われた地域からそう遠くない場所での、戦車の砲弾による犠牲だった。
“軍事侵攻”を受けるというのはこういうことだ。いつ何時、どこから銃弾が、砲弾が、ミサイルが飛んできて、命を奪われるか分からない。ただ、それが自分の身に降りかからないよう祈るだけであるということを、これほどまでに思い知ったことはなかった。
この街は、二年前の大規模な侵攻の際にも多くの犠牲者を出している。その後、昨年八月、ガザからの撤退後、命を狙われないという意味での最低限の「自由」を得たのもつかの間、再びイスラエル軍の戦車の、戦闘機の、スナイパーの標的となっている。
同じ日、イスラエル軍はこの街でアラブ系テレビ局アルジャジーラのクルーも襲った。危険を察知したスタッフが撮影現場を離れたその直後、イスラエル軍の戦車から、クルーが撮影していた民家が砲撃を受けた。とっさの機転で彼らは九死に一生を得た。
十七日、同じ街でパレスチナの通信社ラマタンのオフィスがイスラエル軍により占拠され、スタッフとその家族が拘束された。取材車は破壊され、スタッフの家族は人間の盾として使われた。
メディアはイスラエル軍の対応に危機感を強めている。ラマタンのスタッフはこう語る。「イスラエル軍は一般市民の犠牲を隠すためメディアに対して攻撃を仕掛けている。ゲームのルールが変わったのだ。新しいルールの下で、何が起こるかはわれわれには予想できない」
■「安全な暮らし子供たちに…」
十八日、イスラエル軍が街から後退すると、サマーハの家族を再び訪ねた。戦車も兵士も見えないが、時折、迫撃砲と無人攻撃機からのミサイルが撃ち込まれ、爆音を響かせる。人々は「この程度は何でもない」と侵攻で命を落とした人々の葬儀を行った。サマーハの父親は言った。「どうせすぐにイスラエル軍は戻ってくるだろう。できる時に葬儀をしなくてはな」
サマーハの母は語った。
「ほしいのは、子供たちが身の危険を感ぜずに生きていける当たり前の暮らしです。パレスチナ人がそれを望むのは、ぜいたくなんですか?」
外国人の私は、今回のことに懲りればガザを離れればいいだけのことだ。しかし彼らには、逃げる場所はない。彼女の言葉をどう受け止めればいいのか。「あなたたちの子供が大切で、私たちの子供が大切ではないと言うんですか? 私たちにとっても、子供は大切なんですよ」
■ガザ全体の犠牲3週間で120人に
三日間の侵攻で、小さなこのベイトハヌーンで十四人が命を奪われた。ガザ全体では、約三週間で約百二十人が犠牲になっている。
二十四日もイスラエル軍のアパッチヘリがガザ市の住宅にミサイルを撃ち込んだ。これが、イスラエルの歴史的な偉業、和平への偉大な一歩と喧伝(けんでん)された「ガザからの撤退」からわずか一年後の現実だ。
(引用終わり)
・・・・・正しい情報が入ってこないように「強者によって」仕組まれているんですね。で、私達はまんまと騙されている。「正しい情報の遮断も戦争の一部」な現実に、背筋が寒くなると同時に、その中で命がけで取材を続けていらっしゃる大月啓介さんのような方々を、これれからも応援しなければ。
再び、布引さんのコメントに戻ります。
> 数千年前の旧約聖書の記述を根拠にしてヨーロッパ人によって作られた人造国家に果たして、どれ程の存在理由があるのか疑問です。
「まんが パレスチナ問題」を読んで強く受けた印象もまさにこれ。「2000年近くも迫害と放浪の旅を続けたユダヤ人」には、確かに「被害者的一面」もあるでしょうが、イスラエル建国のいきさつを読むと、いかに白人が身勝手で狡猾であるかが見えてきます。パレスチナ人側から見たら、自分達が古くから住んでいた土地に勝手にユダヤ人が入り込んできたのです。ユダヤ人に追い出されたパレスチナ人は「難民」になってヨルダン川西岸やガザ地区に逃げ出し、残してきた土地や財産はイスラエルに没収されたのです。こんな仕打ちをされたら、怒るのも無理ないと思うのですが・・・。
主人公の一人、少年アリが言います。
「ユダヤ人を迫害したり虐殺したのは、いつもヨーロッパのキリスト教国じゃないか。オスマン・トルコやグラナダ王国なんかのイスラム国では、イスラム教徒とユダヤ人は平和に共存していたんだ。パレスチナでも1000年以上平和に一緒に暮らしてた。
ヨーロッパの国々も、ユダヤ人を差別しないで社会に同化する事を認めて、共存していれば問題はなかったのに、ユダヤ人を迫害したり、虐殺したりして、人道上の問題になって収集がつかなくなったんで、パレスチナにユダヤ人問題を押し付けただけじゃないか。」
今回イスラエルがレバノンやガザ地区を攻撃している事についても、日本で報じられている「対ヒズボラ、対ハマスとのテロとの戦い」という目で見るのは、アメリカが支援しているイスラエル寄りの見方でしかないという事を感じました。
それにしてもアメリカは、自国の有利になるならどんな事でもしますね。
「ゲリラだろうが、フセインだろうが、アメリカと敵対している国と戦うなら、見境なく支援して、ガンガン武器を与える。」そして、「一度与えた武器は二度と回収できないし、ゲリラとして訓練された人は戦争が終わっても普通の人には戻れない。」(P204)
アメリカが与え続け、広げ続けた傷口は、いったいどこまで大きくなるのだろうと思うと、アジアで緊張が高まる事で「第二の冷戦」状態を作り出し、儲かるのはいったい誰?利用されるのはどこの国?という言わずもがなの不安が胸をよぎります。これでもなお、「アメリカは日本を守ってくれる。」なんて信じている人がおおぜいいるこの国って、どれだけお目出度い国なんだろう・・・。
> ユダヤ人はアラブ人のセム族の一氏族の筈ですが、今の主要なイスラエル人はヨーロッパ白人のユダヤ教徒でしか有りません。
> 元々のユダヤ人たちの子孫は、ユダヤ王国滅亡後数千年の後イスラム化して現在のパレスチナ人と交じり合った可能性の方が高いでしょう。
皮膚や髪の色などの生物的特徴で分けられるのが「人種」、言語や宗教、歴史や伝統の共有で分けられるのが「民族」で、民族の確固たる定義なんて無いのだそうです。ところが民族意識には、「おれたちは、あいつらとは違うんだ。」って意識がベースにあるから、優越感、差別、憎しみなんかとすぐに結びついてしまう。
この本の最後の方では、ちょっとしたどんでん返しがあって「民族意識なんてフィクションなんだ」って事を痛感させるストーリーになっています。
今迄の私の記述では、「元凶はヨーロッパとアメリカ白人である」ゆえに、「ヒズボラとハマス擁護」みたいな論調になってしまっているので、誤解を招かないためにここでちょいフォローをいれておきます。
第三の主人公である「ねこ」が言います。(P83)
「宗教って、伝染病みたいなものだニャ。一神教は中東の風土病ニャのだ。普通は地続きで感染していくんだけれど、大航海時代になって、ザビエルみたいな強力なキャリアー(病原菌を持った人)が船で旅行をすると、あっちこっちで患者が出るんニャ。先住民の虐殺だ、殉教だって、死ぬ人も大勢出る。風土病だったのが、世界病にニャってしまうのだ。流行を止めるには、港を封鎖して、国を閉じるしかニャい。つまり鎖国するっきゃニャいのだ。人間はなんで、こうまでして自分たちの宗教を広めなきゃいけニャいのか?そもそも、本当に宗教って、人間に必要ニャのか?ねこにはわからニャいのだ。」
そして、本来は人を救ったり癒したりするはずだった宗教が、憎しみの連鎖によって形を変えていく。
アリは言います。
「テロリストを作るのは貧困じゃない。絶望なんだ。将来に希望があれば貧乏だって耐えられるし、人を愛する事だって出来るんだ。」
ガザ地区でも「テロの報復だ」という名目で、イスラエル軍によって毎日のように容赦なく人が殺されるのだそうです。そのためにユダヤ人に対する憎しみがわきあがり、その心を静めようとモスクに行くと、過激派のメンバーがいて、「この世は敵だ。自爆テロを行って殉教者になれ。そうすれば天国に召されるし毎月の生活費も保証する。」と誘うのだそうです。憎しみを利用して暴力を肯定するやり方、神の名を借りた殺人の肯定にはどうしても賛成する事が出来ません。
「ねこ」も言っています。(P242)
「宗教は人間の最善の部分を引き出すように作られているはずだけど、時として、人間の一番邪悪な部分、『憎しみ』を引き出しちゃうニョだ。経済が原因の戦争なら、大損をすれば戦争をやめるのだが、宗教がらみで『聖戦』となってしまうと、損をしようが、自分が滅んでしまおうが戦いをやめない。」
・・・こんな終わりのない闇の中に、日本が巻き込まれないように祈るばかりです。そのためには冷静で外交上手な「大人の」リーダーの存在が必要不可欠なのですが、この国ときたら・・・・(ちょい個人的に鎖国モード?!)
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